保健師B-Bの今日のぐだぐだ

ゆるゆる男性保健師の学びの場

やっぱり人が死ぬのには慣れないな

ブログ久しぶりに初めて少しだけ続いたのに、体調崩して、子供も突発性発疹になってお休みしてました。

3日坊主になりかけてしもうた。

 

 

さて、

人が亡くなるということについてです。

 

私は保健師として働いています。

高齢者中心ではありますが、精神疾患を持つ方も多く対応しています。

特に精神疾患を持つ方になると、1回の訪問が1時間~2時間と長くなり、傾聴に費やす時間も多くなります。

 

ただ、どんな人でもいつかは死ぬ。

保健師が予防活動を推進したところで、寿命には勝てない。

管理しきれない病気では死んでしまう。

それが真理です。

 

そんな中での今回の記事です。

 

 

 

 

僕が保健師になって3年ほど関わった方。

統合失調症が強く、精神科でも妄想が固定化していて治療が不可能な状態と言われていたケース。

毎回の訪問は1時間を超え、多い時には週に2回ほど訪問したり、30分単位の電話をしたりとしていました。

 

妄想の内容は、「この世界は欺瞞でできている」「新しくできたものはすべてオカルトな存在」という特異的なものであり、その中に自信が過去に体験した出来事や学んだこと(相対性理論のこととか)が混ざってくるような感じ。

会話は時折成立するような時もあり、話していると意外と人情家であり、自身の欲求に忠実であり、人間らしいようなところが見えていました。

 

ただ、その妄想の中で近隣住民に迷惑をかけることも多く、地域では問題視されていた方です。

なので、地域から弾かれている分、我々保健師とのつながりは強く、関係性は深かったように感じます。

 

 

そんな人が死んだ。

 

 

死後5日程度でしょうか。

体も溶け始めて、腹部は膨満していて、ハエが発生していた。

 

その人との関わりはとてもしんどく、僕の精神も削られるような時もあったけど、でも、3年ほどの付き合いで少しはその人を知れたように感じていたんです。

そんな人が死んでしまった。

 

 

亡くなってから数日が経って、僕が感じる部分は、

「本当にこの死に方で良かったんだろうか」

ということです。

 

もちろん、全ての人が死に場所を選べたわけではないけれども、その人の病態を把握できている僕は、事前に病院に入院させて、病院で看取ることもできたんじゃないかと思うんです。

 今の病院にはエンゼルケアというシステムがあります。

亡くなった時に、その人を綺麗に整えることで衛生的にすることに加え、本人の尊厳を守るケアです。

www.osohshiki.jp

 

そういうものを与えられなかったことの悔しさとか、医療者として事前にできたことがあるのではないかとか、もっとしっかり観察できるようなシステムを作れたんじゃないかとか。

悔しさがあふれてしまいました。

 

 

僕自身は病院勤務時代は循環器内科で看護師をしていました。

循環器内科はたくさんある診療科の中でも「人を生かす」科だと思います。

だからこそ僕は看護師時代に人の死にそこまで出会わなかったんです。

保健師になって何件も人が死ぬところや孤独死で放置されていたこととかを見ましたが、やはり人が死ぬのは慣れないです。

 

保健師は看護師よりもその人と話すことが多く、心からも深いつながりを持てる職だと自負しています。

だからこそ、関わった人が亡くなった時に耐えられない。

 

「その人のためにもっと何かできたんじゃないか」とか、「自分の実力が足りなかったせいだ」とか、後悔の気持ちはどこまでも増えていきます。

 

平成30年1月6日に開催された第6回日本公衆衛生看護学会の基調講演にて、反町吉秀氏の言葉の中に「もったいない死」というものがありました。

事前に防げた死が日本にはたくさんある。

予防や準備がしっかりしていれば、もっと生活を継続できたかもしれないし、もっとよりよい死を与えられたかもしれない。

 

 

いつか、僕は保健師としての経験を積む中でたくさんの死に出会うでしょう。

その時に、今まで出会った死から学び、よりよい死に持っていけるように支援をできるように、成長していかなくてはいけないと感じます。

それが僕が保健師として働くことや、保健師として出会った人たちへの責任だと感じます。

 

でも、できれば、人が死ぬのには慣れたくないな。

死ぬのに慣れない人でありたいな。

 

 

 

最後に、

先日亡くなった方は、自分の中に確固たる神様みたいのがいたように感じます。

ただ、私は実家が仏教なので、

南無阿弥陀仏

と。